日頃ロータリーの例会で、儀礼的に行われている習慣について、少々お話をしたいと思います。
1.毎月第一例会には国歌を歌い、例会場には国旗を掲げるのはなぜなのか?
実は戦争中、ロータリーは発祥の地がアメリカであることから、ロータリーはアメリカのスパイではないかと嫌疑をかけられたり、フリーメーソンの組織だという疑いをかけられました。その疑いを晴らすために、国に対して忠誠を誓うことを証明する意味で、例会で国歌を歌い、それが習慣化したものです。当時は、毎例会ごとに特高が来て、サーベルをガチャつかせながら例会を監視したそうです。国旗も同様な理由で掲揚され、今日に至ってい.ようです。ちなみにアメリカ以外の外国では、殆どの国は、国旗を掲揚したり、国歌を斉唱するといった習慣はありません。
2.毎週の例会で開始と終了時に点鐘をならすのはなぜか?。
日本のロータリーでは例会の開始、終了時の鐘を鳴らすのは常識であります。これは例会だけではなく、年次大会、地区協議会、IM等ロータリーの会合はすべて同じで、点鐘を鳴らします。しかしなぜ点鐘か?
については誰も疑念を差し挟まないようですが、どうも点鐘は日本独特のもののようです。例会は、国やクラブによってかなり異なりますが、世界のロータリーから見ると、日本のロータリークラブが点鐘を鳴らすのは珍しいぐらいであって、ヨーロッパやアジアでは点鐘など無く、何時に始まって何時に終わるのかさっぱり判らない例会もあるそうです。外国では点鐘の代わりに“Call
to Order”つまり“お静かに願います”の発言があって例会が始まるようです。そもそもではこの鐘、いつ何処で? というとまったく分かりません。一説によると日本でロータリークラブが始まった1920年ころ東京クラブが使ったのが始まりで、あとは右に倣えになったのではないかと言われています。点鐘は学校の開始と終了のベルやチャイムと同様でもあります。日本人は元来、小さいときから学校でこの習慣にならされてきておりますので、例会始めと終わりにケジメとしてならしているのではないかと思います。
3.例会の始めになぜロータリーソングを歌うのか?
初期のシカゴロータリークラブは、会員同士の親睦と物質的相互扶助が盛んに行われていましたが、1907年にポール・ハリスは対社会的奉仕と拡大に活動方針を転換しました。さらに、1908年に入会しましたアーサー・シェルドンは奉仕の必要性を強調したため、シカゴクラブは親睦・互恵派と奉仕・拡大派に分かれて、毎例会は激論の場と化しました。そのとげとげしい雰囲気を和らげるためにハリー・ラグラスが始めたのが、歌を歌うという習慣でした。最初の頃は「Smiles」とか「My
Hero」などの大衆的な歌が好んで歌われました。日本では、例会や各種の会合が始まる前や閉会する前に、儀礼的にロータリーソングが歌われますが、本来はそのような歌い方をするのではなく、どんなタイミングで、どんな歌を歌おうと一向にかまわないようです。
昭和50年3月25日生まれ 卯年 牡羊座 O型
当時株式会社小野プロパンの社長 小野得太郎の孫、現会長隆三の長男として育つ。
幼少期から「跡取り」と洗脳を受け、それを自分の人生として決まったものとして反抗期なくいい子ちゃんとして育つ。日新小、西中、南高。小学校は水泳、中学校は陸上、高校は剣道、ボクシングも同時にかじる。高校から剣道は珍しかったらしく、未だに変わったやつと言われる。
高校卒業後、札幌の青山工学専門学校へ。
理由は就職はしたくないが、進学の頭もなく、将来ガス屋をやる上で図面が引ければいいのでは?との父の言葉で決定。
わずかでも学費を負担できればと新聞奨学生を2年間。
そこで出会った仲間に世間的な教育を受け、初めて自我がないことに気づく。
周りの友達は苦学生で親の仕送りもなく、バイト掛け持ちしながら、趣味も満喫し、彼女もいる、いわゆるリア充ばかり。かなりの劣等感に苛まれ日々を過ごす。
お母さんの買ってくれた服しか着たことがなかった私を見るに見かねた友人が「隆史改造計画」を立ち上げ、いろいろいじくられ合コンやナンパに駆り出され、なんとか彼女ゲットが19歳。友人達に激しくお祝いされる。
専門学校卒業後札幌の商事会社に就職、ガソリンスタンドとLPガス業務に5年半勤務するも、仕事ができずここでも落ちこぼれ。遅刻、忘れ物、事故の常習犯としてつらい日々を過ごす。ここから暗黒時代スタート。たまたま面倒を見てくれた先輩が体育会系大卒のDV系、毎日ボコボコにされる。暴力はエスカレートし、お金の工面もさせられるようになり、一人では支払いきれない多額の借金を抱えて夜逃げ。
半年ほど放浪して実家にもどり、なんとなくオノプロックスに就職。相変わらず仕事が大嫌い。当時26歳。
仕事は嫌いだったが暗黒時代の反動で「俺は一生趣味に楽しく生きる」と決め、よさこい、魚突き、スキー、ファイヤーダンスと趣味に没頭する日々。好きなことには物凄くパワーを発揮できる自分を知る。
その頃遠距離恋愛をしていた札幌の彼女に振られたところを今の嫁さん(澄子)に拾われる。自分28歳、嫁30歳の時に、親友の結婚報告を受けて目の前で泣かれ結婚を決める。翌年長女志織、その2年後長男陸翔を授かる。
2011年3月11日、東日本大震災。
この時、ガス屋という仕事を通して再エネもかじっていた私は、エネルギーを取り扱うものとして、原発のない世の中を創らねば!といきなり燃え上がる。趣味に全力で向かっていたパワーがやっと仕事に向き、翌年固定買取制度導入に合わせメガソーラー事業をこっそり計画。寝不足が続きヘルニアで手術入院し、入院中に法人設立(エナジーイノベーション株式会社)と事業計画作成をこっそり進め、退院後銀行の融資が決まってから公表。
2013年、秋田で初のメガソーラー申請を受理される。
多くの方が参加できる発電所にしたいという思いで市民出資を募り、配当は秋田県の県産品でというアイデアを実行し、全国から出資者が集まった発電所となった。出資者の皆さんには毎年日本酒やきりたんぽなどが発送されている。
2016年オノプロックスの社長に就任するも、慣れない自分に合わない仕事をして心を病む。復帰後、電力自由化参入を決定。
2016年12月秋田で初めての小売電気事業者となり、よく2月「あきた電力」ブランドを立ち上げる。
現在3人専属体制で今年度中10,000kW契約を目指している。
目標はずっと先の未来「秋田のエネルギーを100%以上地産地消する社会を築きあげ、地域を豊かにする」こと。
最終的には「世界中の誰もが無料で自由に必要なだけのエネルギーが扱える世界」を理想として、そこを目指す企業を育て上げたいと思っている。
これからもロータリークラブの皆様との交流を深め、人間を磨いていきたいと思っています。ご指導のほどよろしくお願いいたします。