皆さん、こんにちは。せっかく降った雪ですが、だいぶ解けてきました。やはり2月に雪ではなく、雨が降るのは気持ち悪いです。
新型コロナウイルスによる肺炎、COVID19と名前が付けられました。MERS(中東呼吸器症候群)のように地域を含む名称にしなかったのは、発生した地域への非難がなされないように配慮されたようです。SARSも本来は「重症急性呼吸器症候群」の略ですが、中国の特別行政区(Special Administrative Region in China)の略称の一部を含んでいるため、香港市民からは嫌われた経緯があります。AIDSもウイルス分類学者が介入するまでは、非公式にGRID(Gay-Related
Immune Deficiency:ゲイ関連の免疫不全)と呼ばれていたそうです。同性愛嫌悪からくるデマの拡散によってこのように呼ばれる結果となりました。現在ではスペイン風邪、クロイツフェルト・ヤコブ病や鳥インフルエンザなどのように地名、人物や動物に因んだ名称は使えなくなっています。
さて、ガバナー公式訪問の時に嶋田ガバナーから「これ読んでおいて」と渡された本が2冊あります。「米山梅吉ものがたり 奉仕の心で社会を拓く」と「米山梅吉遺しし言の葉」です。他に買っていた本もあり、ようやく先日読み終えました。
米山梅吉は慶応4年1868年2月東京芝で武士・和田竹造の三男として生まれました。この年旧暦9月に明治に改元されています。5歳の時、父が亡くなり母の実家がある静岡三島に移りました。6歳のころから通った学校で成績が良かったため、米山家から養子の話が起きました。梅吉少年は文章を書くのが好きで全国版の雑誌によく投稿し、夏目金之助(のちの漱石)とともにその雑誌に掲載されました。16歳のころ、東京へ出て勉強することを決心し、だまって家をでて、3日がかりで東京につきました。その後さらにアメリカで勉強することを考え、東京府の公務員として働き、アメリカへ行くためのお金を貯め始めます。英語の習得のため東京英和学校(のちの青山学院)にも通っています。20歳になり黙って出てきた米山家から許しを得たうえでアメリカ行きを了解してもらい、この時米山家の養子として入籍しています。東京英和学校でお世話になった本多庸一先生もアメリカに来ており、その後の人生に大きな影響を受けました。アメリカ滞在時にダラスロータリークラブに入会していた福島喜三次の紹介でロータリークラブに出会っています。明治28年に帰国し「提督彼理(ペルリ)」を出版しました。この本の題字は勝海舟に書いてもらっています。また福沢諭吉とも親交がありました。翌年29歳で結婚し31歳で三井銀行に入行しますが、将来を嘱望され2年間の欧米の銀行視察を命じられます。大正3年47歳の時「新隠居論」(年寄りは後進に仕事を譲り、経験を活かして社会に尽くす仕事を進めるもの)という考え方を発表しました。そして大正9年53歳で日本にロータリークラブを設立し、新隠居論の実践に取り組み始めます。大正10年に米英訪問実業団に加わり渡米し信託業務を知り、大正13年に三井信託株式会社を創立します。また、昭和9年には三井家が設立した三井報恩会の理事長に就任、さらに昭和13年には貴族院議員に勅選されました。その前年昭和12年には私財をなげうって緑丘小学校(青山学院初等科の前身)を作り新しい教育をはじめ、春子夫人は青山学院幼稚園を作っています。昭和15年に戦争の影響でRCの国際性が軍部ににらまれクラブは解散、国際ロータリーからも脱退します。しかし戦時中も「水曜倶楽部」などと名前を変えロータリーの精神は受け継がれ、昭和24年には復興しています。米山梅吉はその復興を見ることなく、昭和21年4月に78歳で永眠しました。
日本のロータリーは、台湾や京城(現在のソウル)、ハルビンなどにもクラブを作っています。当時日本以外のRCは植民地にクラブを作っていたのでしょうか?
おそらく米山梅吉のことを深く勉強してもらいたくて貸していただいたのだと思いますが、ロータリーについてもだいぶ理解が深まりました。機会があれば読んでみてください。新たな挑戦も大事ですが、仕事と同じように基本をしっかり学んだ上での挑戦が必要であると改めて気づかされました。