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第1407回<今年度第28回>2022年5月27日(金)


 会長の時間
会長:白畑 保
 本日は、クラブ奉仕の時間としまして、長谷川様においでいただき、佐竹義宣公のお話を頂き、誠にありがとうございました。
 佐竹さんは、秋田の天徳寺にお墓があると聞きていましたが、茶道の師匠の師匠と一緒に京都にもお墓あるそうです。とても義理人情に篤いといわれておりますが、コロナや戦争等、心が落ち着かない世の中ですが、昔の方々は、短い人生のなかで沢山のことをされたと思うと、頭が下がります。とても勉強になりました。
 明日は、市内7ロータリークラブの合同例会です。100名を超える参加となります。国連の佐藤先生から、SDGsについての講演会です。SDGsとは、2030年までに行う17項目の持続可能な環境開発目標で、世界的規模で行うものです。
例えば、貧困をなくそうだったり、ゴミ減らしたり、平和だったりと、ロータリー活動も一旦を担っております。
 同時に、ロータリーの認知度も深めるのも目的です。当クラブからも参加して頂きますが、また終わりましたらご報告いたしたいと思います。
 また、先週は、津ねやさんにて夜例会でした。会報の写真を見てもよくわかりますが、久しぶりということもあり、大いに盛り上がりました。やはり、お酒を交えた懇親会も、このクラブには大事であることを、改めて思いました。
 今年度はもう少しになりますが、この勢いで最後まで宜しくお願い致します。


 クラブ奉仕委員会の時間
ゲストスピーチ:長谷川 一法 様
長谷川一法 略歴

学歴 昭和62年3月   京都・花園大学卒業

僧歴 平成 2年4月   臨済宗妙心寺派向性院副住職就任
   平成18年5月   臨済宗妙心寺派向性院住職就任

茶歴 平成 3年4月   (一社)茶道裏千家に入門
   平成15年~20年 (一社)茶道裏千家淡交会秋田支部幹事
   平成21年~28年 (一社)茶道裏千家淡交会秋田支部幹事長
   平成29年9月   千秋茶会実行委員会委員長就任
             (一社)秋田市文化団体連盟茶道部会会長就任
   令和 3年~現在  (一社)茶道裏千家淡交会秋田支部幹事長

テーマ:「佐竹義宜と茶道」

<佐竹義宣と茶道>
 佐竹義宣は元亀元年(1570)七月十六日、常陸太田城に誕生した。天正十四年(1586)十二月、十七歳で父義重の後を継いで家督を相続した。後の文禄三年(1594)の検地では、常陸・陸奥・下野など三国あわせて五十四万五千石の大大名であった。早くから豊臣秀吉の麾下にあり、天正十七年には磐城常陸での田村氏に加勢して伊達政宗と対立していた。
 のちに「関東一の数寄者」と自称した佐竹義宣であるが、茶の湯の修業をいつ頃から始めたのであるのか。史料としては「利休百会記」の天正十八年(1590)と考えられる茶会に招かれたのが管見の範囲では最初である。
 義宣が招かれたこの茶会は同年十一月十二日の朝の会で、石田三成を上客とし、相伴に「佐竹左京(右京の誤り)太夫殿 万代屋宗安(もずやそうあん)とある。宗安は堺の商人で利休の娘を妻とした人物である。茶人として優れ、のちに豊臣秀吉の茶頭八人衆の一人に数えられたほどであった。天正十八年といえば、義宣が二十一歳の時である。義宣は天正十四年、十七歳の若さで父義重から家督を相続された。父義重は未だ四十歳という壮年であったが、何か藩内の特殊な事情から家督を早々に義宣に譲ったのである。義重は六十六歳まで生存しているから、その隠退はいかにも不自然に感じる。その家督相続から四年後のことであった。
 この時の茶会は、茶室は四畳半、四方釜を据え、宗甫棚に薬師堂天目が置かれている。茶入は尻膨(しりぶくら)、橋立の茶壺に信楽の水指、床に古渓和尚の墨跡が掛けられていた。
 利休はこの年八月十日、秀吉の小田原城征伐に随伴していたが、戦いの終結にともない、京都の聚楽屋敷に帰って以後、多くの茶会を催していたのである。茶人として、あるいは政治家として全盛期の利休の茶席に連客の一人として招かれることは、義宣にとってどんなに名誉なことだったろうか。また一方では、利休が義宣を一廉の茶人として充分に認めていたことになる。義宣が、この数年前から茶の湯の修業を行っていたと考えても無理ではないであろう。だが義宣が利休の茶を実際に学んだかどうかはわからない。直弟子とするのは早計であろう。
 二回目は天正十九年(1591)正月十六日昼の茶会は、亭主利休、客義宣の一亭一客の茶会であった。「利休百会記」は「佐竹義宣殿 一人 四畳半 四方釜 信楽水指 茶入尻膨 木守り茶腕 橋立壺」と記している。記載はこれだけだが、利休の一か月後にせまった死を義宣も当然知っていた。表情は穏やかだが、心は極度に緊張した茶会であったにちがいない。今生の別れになる茶会であった。この茶会で利休と義宣との間にどのような会話がなされたのか知る由もない。しかしながら、多感な青年武士佐竹義宣が天下の宗匠利休から受けた人としての影響は計り知れないものがあったろう。
 天正十九年という年は、義宣にとっても多難な年であり秋田藩採集文書には「去年以来の城普請、米の供出など御公用がたび重なって際限ない苦しみが多くてどうしようもない」ともあり、次いで、小田原城参陣、会津征伐の命が下り」、水戸城・府中城攻略と戦乱の日々であった。
 こうした息つく暇もないような日々の中で、利休と義宣の二人だけの茶会の一時がいかに貴重なものであったかは、我々にも容易に想像がつくであろう。二十二歳の血まみれの青春を送っていた義宣が、利休との短い出会いの中に、なにものにも代え難い心の安らぎを得ていたと考えても憶測に過ぎることはないであろう。
 関ヶ原合戦の石田三成救出と、家康へのその行動の弁明・謝罪という義宣の行動は結局、佐竹一族の運命を一変させることになった。関東の雄、常陸の名族佐竹氏は、東北秋田に国替え(転封)になりました。故郷常陸の城を明け渡すに当たって、それまで収集した多くの絵画・墨跡の焼却を命じた義宣はおそらく断腸の思いであっただろう。だが、秋田藩久保田城に入った義宣は、むしろいっそう茶の湯に打ち込んでいったようである。
 佐竹家の重臣梅津政景が書いた「梅津政景日記」には、義宣が毎月平均四、五回は何らかのかたちで茶会を催したり、招かれたことを記している。
 義宣の生活について史料中に茶の湯の記事が見え始めるのは、秋田入国後十五年を経てからのようである。すなわち元号が改まって「元和」になってから急に増えだすのである。
 義宣の茶の湯に関する記事は、元和五年(1619)を境にして急激に増える。月によっては一日おきに自会を催し、他の茶会に招かれたりしている。しかしながら、この年以前の五年間、すなわち古田織部が切腹してからのちの五年間は、茶に関する記載はほとんどない。それがなぜかはわからない。藩政に多忙でもあったろうし、古田織部の切腹によるショックで一時茶の湯から離れたと考えると興味深いが、真相はわからない。
 また、梅津政景日記に「一、御数寄屋御畳出来」とある。この記述から、久保田城内における茶室の畳が出来上がったということを推定することができる。こうして、義宣の国元での茶の湯は、ほぼ元和五年か六年頃に本格的に始められたと、現段階では考えておきたい。

<義宣の茶会記録>
 江戸時代の大名は、参勤交代の制度や将軍上洛の供奉、駿府城の訪問などによって、めまぐるしいほどにその所在を変えていくのが常であった。元和五年(1619)三月、佐竹義宣は江戸に入った。義宣は五十歳になっていた。この頃から茶会に参席することが急増するのであるが、国元秋田の内政もようやく安定し、年齢的にも芸道に浸る心のゆとりができてきたのであろう。義宣は、この三月は十四日間に朝・昼・晩のそれぞれの茶会を含めて二十回も参席している。四月以降、十月までは将軍秀忠の上洛に供奉して京都に滞在した。この間に二十三回の茶会が催された。
 元和六年は、秋田に帰ったため茶会への参加は少なく、二回だけであった。
 明くる七年二月から再び江戸に滞在した。この間四月から八月までの五か月間は、わずか二回だけであったが、九月から十二月までの四か月に、三十七回に参席している。
 元和八年は半年で十二回、翌寛永元年(1624)は、江戸と秋田を往復するのであるが、合計十二回の茶会が行われた。
 寛永二年以降になると、開かれた茶会は急速に少なくなるが、同四年から七年にかけては、江戸城内に将軍家光、大御所秀忠から招かれる茶会が急に増える。
 この義宣晩年の、江戸城内における柳営(りゅうえい)(将軍主催)の茶会へは、養嗣子である義隆もともに招かれることが多かった。手元の史料の範囲では、義宣生涯最後の茶会は、寛永七年十一月九日、将軍家光に招かれたものと思われる。が、招かれた義宣がこの茶会に参席したかは確証がない。丸一年後の九年正月に、義宣は生涯を閉じるのである。元和元年以降、没するまでに参席した茶会は、管見の範囲だけでも百三十四回に上る。
 こうして義宣の参席した茶会の経緯を見てくると、元和五年から寛永元年の六年間、すなわち義宣五十歳から五十五歳の、最も活躍した盛んな時代に茶会が頻繁に持たれたことがわかる。

<細川忠興(三斎)との絆>
 将軍徳川秀忠の上洛に従って京都にあった義宣は、後世に名を残した著名な茶人達との茶会を持つことに精力的であった。中でも細川忠興は旧知の仲であり、古田織部亡き後の、事実上の義宣の茶の湯の師であったと考えられる人物である。
 両者の具体的な接触に関する出来事は、義宣の運命を変えた関ヶ原合戦と、その後の秋田転封とに関わる重大な事件であった。それは既に述べたように、石田三成の救出に関わる一件である。「佐竹家譜」は、関ヶ原合戦の義宣の転封に関して、旧領地の常陸に匹敵する領地を与えられるように、幕府重臣の本多正純に進言したことにより、義宣と忠興は年来親しく交わっていたが、こののち、いっそう二人の間の友情が深まったと記している。
 義宣は将軍秀忠に供奉して京都に上ることになった。ちょうどこの時、忠興もまた、幕府から暇を許されて、元和五年四月二十一日に江戸を発ち、京都に立ち寄ったのち、領国の豊前小倉に向かうことになっていた。この出立に先立って四月九日義宣は忠興の江戸屋敷での茶会に招かれ。ついで三日後の十二日には、今度は義宣が忠興を屋敷に招いて饗応した。それから時を経ずして、両者とも京都への旅に出発したのであった。
 この上洛直前の二人の茶会は、江戸を発って国元に帰る忠興を送る、送別の会でもあっただろう。また、何かと援助の手をさしのべてくれる忠興への返礼の会でもあっただろうか。二人の親交は厚く、京都に滞在するに際しての、茶会の約束などの楽しい話もでたかもしれない。

<義宣の死に際しての三斎と忠利>
 その交流の一端を示すものに、次のような書状もある。この書状は、細川三斎が子の忠利に与えたものである。(大日本近世史料 細川家史料)年紀の記載はないが、義宣の死去に関しての記載があるので、寛永十年(1633)のものであることがわかる。やや長文なので要旨をまとめてみた。
 佐竹義宣殿が江戸で亡くなったとのこと、誠に残念で言葉もない。江戸へ弔問の使者を走ら
 せ、秋田へは家督を相続される御祝儀を届けるのがよろしかろう。佐竹江戸屋敷には、江戸
 にいる家臣を私の使者として送ってほしい。秋田への跡目相続の祝儀の使者は、私の家来を
 送ることにする。金子か、銀子かを祝儀としてもたせようと思う。
三斎は義宣の死に「言葉もない」ほどであった。この文章から三斎も忠利も義宣の死を深く悼んだ様子がわかる。そして、二代目を継ぐ佐竹義隆への祝いの使者を直ちに送る旨を述べて、いっそう佐竹家と細川家との交わりを深めることを意図していたと考えられるのである。忠利も、父から促されるまでもなく、江戸への弔問と、秋田への祝儀の使者を走らせたのであった。

<所持した名物茶道具>
 義宣が所持した茶道具についての記録は、管見の範囲では、その活発な茶の湯活動に比較すると、そう多くはない。以下の茶道具が名物茶道具になる。
 ・唐物茶壺「松前」
 ・唐物茶入「佐竹文林」
 ・唐物茶入「宗無肩衝」
 ・瀬戸茶入「松前肩衝」
 ・瀬戸茶入「黒沢肩衝」
 ・茶入「円座肩衝」
 ・牧谿「江天暮雪」図

<おわりに>
 千利休が堺の屋敷で自刃したのは、天正十九年(1591)二月である。佐竹義宣は弱冠二十二歳の青年であった。義宣が十代で茶の湯の修業に入ったとしても、利休に接することができたのは、数年間のことであった。利休の茶会に参席したが、それは弟子としてではなく、常陸国の大名の後継者としての特別の配慮であったと見る方が穏当だろう。利休の直弟子としたいところだが、「利休百会記」に義宣の名が載っているから弟子であったとはいいにくい。利休の人間性に大きな影響を受けたであろうことは容易に想像できるが、確かな証拠があるわけではない。
 それにしても義宣は二十四歳の時の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の肥前名護屋の陣から国元に送った「私こそ関東第一の数寄者である」という内容の書状は、どのように解釈すればよいのだろうか。陣内の茶の湯の流行は、既に周知の事実である。このように盛んに行われた茶の湯を見ながら、自分の力量を「関東一」という義宣の言葉は、単なる大言壮語だと片付けるわけにはいかない。この当時の茶の湯が、もちろん京都・大阪を中心とした関西で行われたから、「関東一」と謙遜していったという見方もあるかもしれない。それにしても他の関東の武将が、全く茶の湯を嗜まなかったわけではない。書状の内容には、多くの茶会に参席し、名物茶道具に接している毎日を誇らしげに記した部分もある。それは家臣の「重清日記」によっても裏づけられている。こうして二十一歳の時に利休に会い、二十四歳の時に、名護屋の陣内で多くの茶会に参席して著名な茶人に接した義宣の、青年らしい自負の念を表現したのが「関東一」という言葉であろう。
 この名護屋陣内で初めて会った今井宗薫との交流は、義宣の茶の湯に大きな影響を与えただろう。この最初の交会から三十年たって元和元年の金地院崇伝の茶会に同席するまで、二人の交流は何らかのかたちで続いていたのである。父今井宗久とともに、今井流といえるような茶の湯を宗薫は持っていたであろう。義宣と古田織部重然との関係がはっきりするのは、慶長五年の関ヶ原合戦の前後と考えられる。そうすると、宗薫との関係はそれより七、八年以前からと考えられる。古田織部もまた、この名護屋陣中にいたけれども、義宣との交流は今のところはっきりしない。現段階では義宣は利休の茶会に参席し、今井宗薫にその茶の湯修業の始まりの時期に多くの影響を受けたと考えられる。
 古田織部重然が義宣の茶の湯の師であることはほぼ間違いない。「慶長年中卜斎記」に「織部は佐竹茶の湯の師にて」その間柄がよい故に、家康は織部を義宣への使者とした、とある。また二人の間の往復書簡からも、その交わりの深いことは実証できた。利休の侘び茶を変革して、動的で華やかな茶を創作した織部の茶を、義宣も目の当たりにして、多くの感化を受けたことであろう。
 義宣は細川三斎(忠興)との交流も深かったようである。三斎は利休正統の茶を継承して、織部とは反対の生き方をしたといわれている。織部の変革性は、ついに徳川幕府に対する謀叛の嫌疑を受けて、死を賜ることになった。一方、三斎は徳川家に忠誠を尽くして、以後数百年にわたる家格を維持した。三斎が義宣の死を知って、衷心から哀悼の意を表し、直ちに使者を義宣の国元の秋田に遣わした書簡も残っている。(大日本近世史料 細川家史料)革新的な織部の茶に対しては、保守的といわれる三斎の茶よりも、一般的に強い関心を持たれることは当然であろう。しかしながら、茶の湯の基本的条件を壊さずに守り続けていくことは、新規の条件を時代の要請に従って作り出すよりも困難であることは明確であろう。
 義宣の茶の湯の師ともいえる茶人は、千利休・古田織部・細川三斎・今井宗薫であったと考えてよい。

<主要参考文献>
「利休百会記」「梅津政景日記」「重清日記」「大日本近世史料細川家史料」
「茶道の歴史」(桑田忠親著)
「茶の湯の歴史」(熊倉功著)
「茶道の歴史 茶道学大系二」千宗室監修 谷端昭夫編
「戦国武将茶人」桑田忠親/矢部良明/伊藤潤/宮下玄覇 共著
「桃山・江戸時代初期の大大名の茶の湯」矢部誠一郎著

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ガバナー事務所
 ・RLI DI(ディスカッションリーダー)研修会 
 開催案内
  日時  2022年6月26日(日)10:00~16:30
  会場 秋田市文化会館 4F$研修室
  登録料 無料
「風疹予防運動」
  ≪風疹ゼロ≫プロジェクトへの応援
  各テーブルへパンフレットを配置
秋田県身体障害者スポーツ協会よりスポーツ
 大会支援金お礼状


【出席報告】
例会日 会員数 出席数 欠席数 出席数 メークアップ
5月27日 39名 23名 16名 58.97% 5名
5月20日 39名 31名 8名 79.49% 0名
5月13日 39名 31名 8名 79.49% 0名


6月の例会プログラム予定
6月 3 日 (金)  職業奉仕委員会の時間
 ・訪問例会:国際教養大学
6月10日 (金) 新会員スピーチ 岩崎会員
6月17日 (金) 理事会開催
プログラム・ニコニコBOX委員会の時間
バッジ交換
インフォメーション
6月24日 (金) 特別休会



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