ポール・ハリスとその萬年
ポール・ハリスは,1912年から1926年までの間,病気がちであったことから,実質的にロータリーの第一線から引退しておりました。一方では,その間,法律事務所は順調に業務を拡張しておりました。
1926年,健康を回復したポール・ハリスは,世界中のロータリークラブを訪問したり,国際大会や協議会にも出席して,充実したロータリー活動をしています。
1928年,ポール・ハリスはヨーロッパのロータリーやIMに出席して,ロータリーの創設者として演説し,ロータリーの創設者として賞賛されました。
ポール・ハリスは,以前から,ポール・ハリス個人に対する賞賛がロータリー運動の価値を滅却することを危惧していたのですが,それは杞憂に過ぎず,ロータリーはその真の価値により確立された運動となっていたことを改めて実感したのです。
その後のポール・ハリスのロータリーに対する活動は目を見張るものがあります。
1935年には日本を訪問するなど,1937年までの3年間に,世界一周のロータリーの視察旅行をしております。このポール・ハリスの世界視察旅行の目的は,当時,列強国間に高まりつつあった国際的緊張をロータリアンの友情を通じて和らげることにあったと言われております。日本には船で橫浜に上陸し,東京での晩餐会の後,翌日,船で神戸へ回り,京都,大阪で日本のロータリアンと友情を深め,船で上海,香港を経由してマニラを到達しています。日本を離れた後マニラまで,日本人ロータリアン14名が同行するほどの大歓迎を受けたのです。
1947年1月27日,ポール・ハリスはシカゴ郊外のカムリー・バンクの自宅で亡くなりました。享年78歳でした。ポール・ハリスは,生前,「私の葬儀に花はいらない。それよりもロータリー財団に寄付をしてくれた方がよっぽど嬉しい。」と言っていたことから,ポール・ハリスの死後,全世界のロータリアンから多くの寄付が寄せられて,1年後には約200万ドルの寄付が集まり,その後のロータリー財団の基礎を築くことができたのです。虎は死して皮を残し,ポール・ハリスは死して財団基金を残したとでも言えるのではないでしょうか。